ウィタン(賢人会)

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ウィタン(Witan)またはウィテナイェモート(Witenagemot)は中世イングランドにおいてアングロ・サクソン諸王国の君主が招集した評議会および評議会を構成する顧問のこと。賢人会、賢人とも訳される。エアルドールマンやセインと呼ばれる有力諸侯や司教などの高位聖職者らから構成され、重要政策の決定、立法、徴税、教会特権、土地の授封などに助言を行った。特に王位継承はウィタンによって承認されるのが通例であった。

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ウィタンとは

「ウィタンの様子を描いた十一世紀初頭のミニアチュール」

「ウィタンの様子を描いた十一世紀初頭のミニアチュール」
(十一世紀初頭に編纂されたモーセ五書とヨシュア記の六書を古英語に翻訳した “Old English Hexateuch”の中の一枚。)
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ウィタンは賢者を意味する古英語’wita’の複数形’witan’が語源である。ベーダの著作「アングル人の教会史」(731年)には、六世紀末から七世紀初頭の時期にケント王国エゼルベルフト王によって制定されたエゼルベルフト法典は「経験ある援助者たちの助言を受け入れ」(1高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、82頁)て編纂されたとあり、ウィタンの初期の例の一つと考えられるが、それ以前の古ゲルマンの民会との関連や影響など起源については定かではない( 2Liebermann, Felix (1913). The National Assembly in the Anglo-Saxon Period., Halle a.S. M. Niemeyer, University of Toronto, Robarts Library.pp.2-3.)。また、ウィタンの機能と権限は時代によって大きく異なっている( 3Liebermann.(1913).p.2.

エゼルベルフト法典に続いて七世紀にケント王国で相次いで編纂された諸法典やウェセックス王国のイネ王法典など多くのアングロ・サクソン法典には聖職者や有力貴族ら有識者の助言によって編纂された旨の前文があり法の制定に関してウィタンの助言が重要な役割を果たしていたことがわかる。「アングロ・サクソン年代記」によれば、757年、ウェセックス王国のウィタンは不法な行動を理由にシゲベルフト王の領地を没収することを決定しており(4大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、62頁)、王の退位にも大きな権限を持った。また、九世紀末、アルフレッド王とヴァイキングの王グスルムとの間で結ばれたアルフレッド・グスルム条約では両者とともにイングランドのウィタンとグスルムが支配するイースト・アングリアの民の誓約によって条約が発効した(5“This is the peace that King Alfred and King Guthrum, and the witan of all the English nation, and all the people that are in East Anglia, have all ordainedand with oaths confirmed, for themselves and for their descendants, as well forborn as for unborn, who reck of God’s mercy or of ours.”Translated in Albert Beebe White and Wallce Notestein, eds., Source Problems in English History (New York: Harper and Brothers, 1915).,Medieval Sourcebook:Alfred and Guthrum’s Peace. Fordham University.)。

イングランド王国成立後の930年にチチェスターで開かれたアゼルスタン王のウィタンは周辺諸国の王侯含め50人以上、翌年にコルチェスターで開かれたウィタンは100人以上の参加者が名を連ねる大規模なものだった。以降、ウィタンの制度化が進み、年に一回イングランドの各都市で開催され重要政策の決定、立法、徴税、教会特権、土地の授封、王位継承と即位の承認などの役割を担った。聖俗大貴族からなるウィタンは移動する宮廷として地域共同体とも結びつき王権を支えた(6近藤和彦(2010)『イギリス史研究入門』山川出版社、44-45頁

1035年、クヌート王の死に伴ってオックスフォードで開催されたウィタンでは生前クヌートが後継としていたハーザクヌートではなく異母兄のハロルドの即位を支持し、結果北海帝国は分裂した。また、1066年、エドワード証聖王死後に開かれたウィタンではハロルド・ゴドウィンソンの即位が支持され、この継承を巡ってノルマン・コンクエストが始まった。

イングランドを征服したウィリアム1世はフランスの制度に倣い、国王と直接授封者(直属封臣”Tenant in Chief”)の合議で運営する機関「クリア・レギス(Curia Regis)」を設置、フランス風の官職を採用して統治機構を再編、ウィタンは役割を終えた。

参考文献

脚注